2014年のゴールデンウィークの前半に出かけたのは,タイのカンチャナブリ〜ナムトックの辺り。ミャンマーとの国境に近いところで,クウェー川沿いに熱帯の緑が深いエリア。初めてタイに渡った20年前から「カンチャナブリに行ってみたい」と言っていたような気がしますが,やっと実現です。今回はバンコク在住の友人Tも付き合ってくれるというので心強い。
あの辺り,旧日本軍がミャンマー,インド方面への補給路を確保するため,ひどい無茶をして鉄道を建設したところです。イギリスはその鉄道の建設には5年を要すると見積もり,その難工事は建設労働者にとっても過酷すぎるとして結局建設を見合わせたのに,旧日本軍はろくな重機も物資の補給もない中,連合国軍の戦争捕虜とアジア地域からの労働者を動員し,鉄橋や切通しの続く400km余りの鉄路建設を強行。わずか20か月足らずで開通させたというのです。その代償は悲惨でした。連合国軍の戦争捕虜だけで12000人以上,アジアの労務者も合わせると10万人ともいわれる死者を出したのです。死因は病気,けが,飢え,虐待。イギリス,オーストラリア,オランダなどの人々にとっては,旧日本軍による残虐行為を今に語り継ぐ故地となっています。
鉄道が実際に使われたのは1943年〜45年。連合国軍による爆撃と日本の降伏で大部分は打ち捨てられたのですが,一部区間は現在もタイの国鉄が走っており,特にカンチャナブリ近くのクウェー川を跨ぐ鉄橋は往時を偲ぶ場所として多くの観光客を集めています。古くは1957年公開の映画「戦場に架ける橋」,最近では2013年公開の映画「The Railway Man」の舞台になった場所としても知られていますしね。
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20年前には「dark tourism」という言葉はなかったと思います。事故や戦争の悲惨な現場を訪れる旅。物見遊山で出かける場所ではなく,不謹慎だと批判を受ける可能性はあるけれど,やはりその現場を訪れてそこで何が行われたのかを噛みしめることは,ひとつの旅の形としてあり得ると思うのです。
鉄路建設の最大の難所,ヘルファイア・パス。この切通しをほとんど鑿(のみ)と鎚(つち)のみで,ひたすら捕虜たちをこき使って造ったといいます。今でもここで命を落とした連合国軍兵士の遺族たちが花を手向け祈りを捧げに来る場所に,日本国民として訪れることは複雑な心持ちです。
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そして日は昇り、日は沈む。
森の奥,クウェー川に浮かぶ気の利いたロッジで,あるいはバンコクの歓楽街を行き交う人々を眺めながら,Tとたくさんのビールを空けた週末は過ぎていきました。
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20年前には「dark tourism」という言葉はなかったと思います。事故や戦争の悲惨な現場を訪れる旅。物見遊山で出かける場所ではなく,不謹慎だと批判を受ける可能性はあるけれど,やはりその現場を訪れてそこで何が行われたのかを噛みしめることは,ひとつの旅の形としてあり得ると思うのです。
鉄路建設の最大の難所,ヘルファイア・パス。この切通しをほとんど鑿(のみ)と鎚(つち)のみで,ひたすら捕虜たちをこき使って造ったといいます。今でもここで命を落とした連合国軍兵士の遺族たちが花を手向け祈りを捧げに来る場所に,日本国民として訪れることは複雑な心持ちです。
ここで先人たちがやったことを自分が詫びるのも嘘くさい。といって「戦争は二度と起こしてはいけません」と他人事のように語るのもなんだか違う。70年前,朝から汗だくのこの蒸し暑い森の中で起きたことと,今自分が生きている世界は地続きであり,それはそのまま,受け入れなくてはならないのでしょう。反省だの哀悼だのと言葉にすると白々しく感じられ,ただ自分たちはこの悲惨な歴史の先端に立っていて,この悲惨な歴史を作った先人たちと同じ人間だということを認めるしかない,それだけでした。
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連合軍墓地。アジアの熱帯の森で,20代から40代の若さで命を落とした,いや,殺された人々を忘れないための場所です。
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連合軍墓地。アジアの熱帯の森で,20代から40代の若さで命を落とした,いや,殺された人々を忘れないための場所です。
旧日本軍が鉄道建設中の1942年に建てた慰霊碑も訪れたのですが,自分にはカメラを構えることができませんでした。
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そして日は昇り、日は沈む。
森の奥,クウェー川に浮かぶ気の利いたロッジで,あるいはバンコクの歓楽街を行き交う人々を眺めながら,Tとたくさんのビールを空けた週末は過ぎていきました。